162.9

0.1mm足りない

物語でない日々

金曜日。あの人困っちゃうよね〜と「問題解決」に熱心な皆様の横をすり抜けて会社を出る。結束するために1人を生贄にする文化はもう小さなころからずっと見てきた。自分の持っている価値や常識が必ず正しいと思い込む小さな空間。私はいつあの中に放り込まれるのだろうか。あるいはもう放り込まれていることに気がつかず静かに食べられているのか。もう学生の頃のように柔い心が折れることも立ち上がれなくなることもない。心の痛覚を麻痺させることで社会生活を乗り越えられるようになってしまった。大人になんかなりたくないと言っていた私はすっかり大人になってしまったようだ。身体の中をぐるぐると暗くてドロドロとしたものが巡っている。思わず小さくうめき声を上げながら、重たい身体を引きずるように駅までの薄暗く寒い道を歩く。

 

逃げるようにして駆け込むのは書店だ。整列された本の背表紙は呪いを解くお札のように感じる。大好きなシリーズの新刊を見つけて幸せな気持ちになる。少し軽くなった身体でお会計をしていると、手から一円玉が落ちる。重い鞄と財布を手にあたふたしていると、隣のレジで会計をしていた人がわざわざ拾って笑顔で渡してくれた。その人の買った本が一瞬見えた。私が手にした大好きな本と同じだった。

 

物語のようにその人との出会いから何かが変わり始める……ことはあるわけもなく。書店を出て寒くて暗い外へと歩いていく。だけれど不思議と身体は軽い。物語のように起承転結はない、ただの平日夕方の出来事だ。好きな本と、好きな本を好きであろう人との小さな出来事をお守りに、この物語でない日々を愛せる日が来たらいいなと思う。