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0.1mm足りない

お米おいしい

お米おいしい。

朝、夕はお米を食べている。週に1~2回、3合から5合をまとめ炊きしてラップにつつんで冷凍保存する。朝用には少し少なめに、夜はちょっと多めにする。お昼はパンを持って行っている。本当はご飯を食べたいが、電子レンジがお局様たちの順番待ちだし、温めたご飯を持ってそのままだと食中毒もろもろが心配なのであきらめていた。

炊飯器を開けたときの湯気、立ち上る炊き立てのご飯の香りが大好きだ。この前は久々に山盛りの炊きたてを食べた。アツアツのご飯を口に入れた瞬間、「あ、幸せだ」と思った。唐突にこれが幸せなんだと理解した。私はこの瞬間のためにはたらいている。それはお米を買うための金銭を得るという意味だけではなく、肉体と精神を動かし、ご飯をおいしく食べる為に動くということだ。食べること全般が好きで、パンも麺類も大好きだが、やはりお米に惹かれる。腹持ちがよくてパワーが出る。お米おいしい。お米ありがとう。農家の皆様本当に感謝です。

サーモスの「ごはんが炊ける弁当箱」という製品のことを知った。レンジで1人前(0.7合とやや多めだが)のご飯が炊けて、しかも保温してお弁当に出来るというものらしい。即買いした。これがあれば三食お米を食べられる。しかもあつあつで!!最高だ。職場に行くのが少しだけ楽しみになった。とりあえず行けば昼にはご飯が食べられる。それだけで頑張れる。

クリームシチュー作った

クリームシチューを作った。ドラマで作っていたのを見て寒い雨の日に作ることにした。そのドラマではルーも作っていたが、私は市販のルーに頼ることにする。しばらく自炊という自炊をしていなかった。ご飯は炊いていたけれど、お惣菜はスーパーで割り引かれたものを買って食べていた。一口コンロのIHということもあり、電気代が気になって逆に自炊をしないほうがいいのではと思っていた。

じゃがいも、にんじん、玉ねぎの皮をむき、シチューに入っている形状を思い出しながら切る。実家でピーラーを使う習慣がなかったが、一人暮らしを始めて導入してみたところ、こんなに楽に無駄なく皮むきができるのかとびっくりした。じゃがいもと人参を先に耐熱皿に入れてレンジにかける。こうするとコンロを使う時間が短縮できると考えた。玉ねぎを炒め、少しやわらかくなったじゃがいもと人参を投入し、水を入れる。蓋をして煮込んでいる間に洗濯物を畳んだりちょっとした家事を済ませたりする。ご飯もセットする。煮る料理は間にいろいろ済ませられて楽だ。ある程度火が通ったら肉入れてまた少し煮て、火を止めてルーを入れる。溶かすと一気に「シチュー」というかんじになる。牛乳も入れる。ご飯が炊けたので、冷凍用に小分けにしてラップにくるむ。これから食べる分をお皿によそう。シチューとご飯を一緒に食べるのが苦手という人もいるらしい。私はかまわずご飯の上にできたてのシチューをかける。とろとろの鍋いっぱいのシチューにうっとりする。自然と口角が上がる。

食べ始めてあれ、味が薄い?と感じた。だが、お肉、野菜と味わううちに、ちゃんと味がわかるようになってきた。調味料の味ではなく、素材の味にたどりつくのが久しぶりだと思った。口の上に食べ物を入れて、その味を探る、感じる、拾い上げるのを繰り返しているうち、最近私はご飯を食べるというより、お腹につめこんでいたんだなと気づく。嫌なことをマヒさせるための食事。

「感じないようにする」モードに慣れすぎたんだろうななどと思った。私は自分が我慢すればいい、多少の痛みを感じるほうが、人に何か言ったり関りあったり何かしてもらうよりましと考えてしまう。そうなると感じることに対して鈍感になることが多く、それは気持ちの面だけでなく身体的な感受性を鈍くさせることでもある。実際多少寒いとか暑いとか感じてもすっごく我慢して乗り切ろうとしたり、手を切って痛くてもかまわず仕事を続けてしまったりする。

多少高くついても、できるうちは自炊をしようと思った。ご飯をつくる、それを食べるという行為は不思議で、面倒くさいと思う気持ちよりも、なんだか心が落ち着くような気がする。特定の信仰がないのでわからないが、なんだか料理は「祈り」という感じがする。もちろん、一人きりで好きに作れるからこそ思うんだろうけれど。マヒさせてつめこむんじゃなくて、味わって楽しむようにできたらいい。感じることを、自分であるということを取り戻す祈りの時間になればいい。

ちなみに生ハムとクリームチーズと白ワインも買ってしまったので完全に食費が予算オーバーしたけれど、たまには。

引越しで気づいた自分にとって必要な物たち

引っ越しをした。

 

費用を抑えるため、知人の力を借り業者を頼まずに荷物を運んだ。そのため、不要なものを処分し、最低限ぎりぎり生活できるものだけを持ち込んだ。必要なものは、暮らしながら揃えればいいかと思った。もともと物が少ないので比較的楽にできた。

 

「これは最悪なくても生活できるなー」と思って最初のうちなかったものの中で、比較的大型でやはり自分にとってなくてはならなかったものを備忘録がてら書いておく。

 

・カーテン

ホームセンターで買おうとしたら、微妙な柄のものしかなく、レースの遮像カーテンだけあればとりあえず大丈夫か……。と思っていた。実際、着替える時に気を付けたりすればまあ生活はできたし、室内が明るくても暗くても遮像するタイプなのでそういう面では問題なかった。問題なのは、精神的な部分。厚手のカーテン、完全に外の光と景色を遮断するものがあるとないとでは、夜間の気持ちの休まり方が全然違った。自分と外の世界とを気持ちの面で遮断する役割があるんだなとわかった。

 

・テーブル・椅子

床でご飯食べてました(小声)机と椅子が届いてからの感動。ご飯を机に置いて食べられる。背筋を伸ばしてご飯を食べられる。書いたり読んだりPCしたりできる。失ってはじめて気づくありがたみランキング上位3位に入る。

 

・テレビ

見たい番組が特にあるわけでもないし、配線ごちゃごちゃするしいらないかなと思っていた。ネット環境もあるし。知人に譲るつもりでいた。ところが、住んでいるところの壁が若干薄くお隣さんの音が気になったり、いかんせん寂しさが増強されたりで設置することにした。思えば私は小さい頃からテレビが常についていないと落ち着かないタイプ(両親の影響がかなり大きい)なので、見なくてもなんとなくテレビがついている環境が自分にとって必要なのだとわかった。あるとないとでは精神的な安定感がこんなにも違うのか……と愕然とした。ラジオや動画を流すのではなく、テレビのあの感じが必要で……。

 

・洗濯機

昭和三種の神器のありがたみを令和の今実感するとは。コインランドリーにいちいち出ていくほどの量もなく(持っている服の数も少ないのでためて一気に洗いに行くという感じではなかった)届くまで手洗いしていた。汚れの多いものはないので洗うのはまあ何とかなるのだが、とにかく「脱水」の過程、ひとつひとつ絞るのが一苦労だった。ちなみに届いてからも必要な部品がなかったりひと悶着あって大変だったので、次はしっかり見て準備してから買おうと心に誓った……。

 

自分にとって必要な物がある、精神的な安定や落ち着きに大きくかかわるんだなと実感した。よかったなと思うのは、自分にとって最低限の必要、不必要が明確になったこと。より少なく、されど心豊かに生活するという気持ちでやっていく。

物語でない日々

金曜日。あの人困っちゃうよね〜と「問題解決」に熱心な皆様の横をすり抜けて会社を出る。結束するために1人を生贄にする文化はもう小さなころからずっと見てきた。自分の持っている価値や常識が必ず正しいと思い込む小さな空間。私はいつあの中に放り込まれるのだろうか。あるいはもう放り込まれていることに気がつかず静かに食べられているのか。もう学生の頃のように柔い心が折れることも立ち上がれなくなることもない。心の痛覚を麻痺させることで社会生活を乗り越えられるようになってしまった。大人になんかなりたくないと言っていた私はすっかり大人になってしまったようだ。身体の中をぐるぐると暗くてドロドロとしたものが巡っている。思わず小さくうめき声を上げながら、重たい身体を引きずるように駅までの薄暗く寒い道を歩く。

 

逃げるようにして駆け込むのは書店だ。整列された本の背表紙は呪いを解くお札のように感じる。大好きなシリーズの新刊を見つけて幸せな気持ちになる。少し軽くなった身体でお会計をしていると、手から一円玉が落ちる。重い鞄と財布を手にあたふたしていると、隣のレジで会計をしていた人がわざわざ拾って笑顔で渡してくれた。その人の買った本が一瞬見えた。私が手にした大好きな本と同じだった。

 

物語のようにその人との出会いから何かが変わり始める……ことはあるわけもなく。書店を出て寒くて暗い外へと歩いていく。だけれど不思議と身体は軽い。物語のように起承転結はない、ただの平日夕方の出来事だ。好きな本と、好きな本を好きであろう人との小さな出来事をお守りに、この物語でない日々を愛せる日が来たらいいなと思う。

 

 

 

2019年やりたいこと

2019年やりたいこと

☆お芝居をできるだけ観に行きたい

昨年の後半「少女☆歌劇レヴュースタァライト」にはまり、舞台やライブに行ったのがきっかけで、いろいろお芝居やミュージカルを観てみたいなーという欲が高まっている。まずは、九九組のメンバーが出演されている作品を観に行ってみたい。というわけで早速富田麻帆さん出演の1月のお芝居2作品「CRIMINAL」「OH,MY GODDESS!!〜あなたが望むなら〜」を観に行く予定。作中の天堂真矢様推しから派生して、演者の富田麻帆さんのファンになり、ニコニコのチャンネル会員になってるレベルなのでわくわくしております。スタァライトの方のライブやお芝居も積極的に行きたいけれど、こちらはチケットが取れるのか……。

 

☆学問的な観点から舞台や演劇について知りたい

スタァライトで裏方とお客さんのことを「舞台創造科」って呼んでいるのとか、「コロス」っていう言葉と存在がおもしろいなーと思ったのがきっかけで、そもそも舞台とか演劇のことって全然知らないなー学んでみたいなーと思ったため。ちなみに今の知識は上手下手を最近理解したレベルです……。「図解 よくわかる演劇」みたいな本あるのかな……。平田オリザさんの本とかから読んでみようと思う。

いとおしい猫の話

通勤途中に猫がいる。

 

いつもより少し遅れてそこを通ると、猫がいる。背もたれ付きの古びた椅子が置かれている場所があり、 そこに「座って」いる。周りに民家はなく、人もいないので飼い猫というわけではないようだ。「座って」というのは、あたかもこれはヒトが座るためのもので、ここの部分が「座る」ところだと完全にわかっているかのような佇まいを感じるからだ。

 

今日も少し遅れてそこを通ったらやはりいた。しかしなんと今日は椅子に座っていない。椅子の下で身をかがめている。暑いのかどうしたのか。ふと視線を少し先に向けると、猫の1メートルほど先に鳩がいる。なるほど。猫は身を低くかがめて尻尾を左右に大きく揺らし、狙いをすませていた。私はヒトであり、カイシャに行かなくてはならなかったため、その闘いの行方を知らない。

 

なんだかこの猫を見かけると、とても幸せで心強い気持ちになる。ただ存在すること。遭遇すること。ただ日々の命を生きていること。その存在がとても愛おしい。

ひとが星に願った先に触れないということ

今週のお題「星に願いを」

 

先日テレビを流し見ていて、子どもが専門家に電話をして質問に答えてもらうラジオ番組の回想シーンがあった。そこで、流れ星にお願い事をすると叶うのか、と子どもが質問していた。専門家は、星に願うことで叶うかどうかはわからないけれど、短い流れ星の間にその願いが出てくるということは、それだけ強く願っているということだからきっと叶うよと言っていたそうだ。ちょっといい話風にまとめていたそれが、私にはどうにも腑に落ちなくてモヤモヤしていた。

 

いや、めっちゃくちゃいい話だと思う。返しも的確でベストだと思う。でも私の中の何かが引っかかる。

 

「願いが叶う」ことについて言及したり、確約するのって、その人の未来を断言することだと思う。私にはそれが呪いのように聞こえた。あなたの願いは叶いません、というのは明らかに呪いだし、よくないことなんだけれど、あなたの願いは叶いますも呪いだと思うのだ。願いが叶うことは必ずしもその人の幸せではないし、未来の一つの分岐点でしかない。だから人の願いに、その願いの行き先に、触れたくない。真綿でそっと包んで、その人のためだけに、大事に置いておいてほしい。